人間は、道具とともにそのあり方を変容させてきました。テクノロジーの進化によってこうした「道具」が道具の範疇を越え、情報環境として私たちを包み込むようになったとき、私たちの未来の姿は、どんなふうに変わっていくのでしょうか? 身体情報学の見地から、未来の人間像を予測します。東京大学先端技術研究センター、稲見昌彦教授へのインタビュー。
「心理学」ならぬ「身理学」 土屋:
今回のTHE TECHNOLOGY REPORTは、「ヒューマニティ」つまり「人間という生き物のあり方」がテーマとなっています。さまざまな情報環境や技術が次々に社会実装されていくなかで、これまでの技術と人間の関係によって人間がどのように変化してきたのかを振り返りながら、どのような「次の変化」の兆候があるのかを考察しています。本誌では、まさに稲見先生が研究されている、人機一体、人間拡張、自在化身体といったトピックに関連する部分が非常に多く、また「稲見自在化身体プロジェクト」、著書『自在化身体論』なども参考にさせていただいており、ぜひこの機会にお話を伺いたいと思いお時間をいただきました。
まず、稲見先生の専門領域である「身体情報学」とは、どのような学問なのでしょうか?
稲見:
身体に対してのアプローチにはさまざまな方法があります。たとえば、医学や生物学では身体の生理学的なアプローチが可能です。スポーツの分野ですと身体運動学などのアプローチが有効です。それに対し身体情報学は、我々の身体を情報システムとして理解した場合の知見に基づき、人間に関わるサービスをつくっていくことを目指しています。言葉遊びになってしまいますが、いわば身体情報学とは、心理学の「心」を「身」に変えた「身理学」ともいえる のではないかと思っています。
インタビューは2022年9月14日、オンラインで行われた。
土屋:
人間をひとつの関数としてとらえて、さまざまな入力に対してどのような出力がなされるのかを解き明かしていく、というようなイメージでしょうか。
稲見:
そうですね。人間自体、脳も含め大きなブラックボックスといえます。そこに対して、入出力関係を色々と調べていき、どのような性質を持っているのか理解していこうとしています。
そのために、様々なウェアラブルセンサを使うこともありますし、最近ですとfMRI(functional MRI)を利用して、身体の変化がどう脳の活動に影響を及ぼしているのかも調べています。
人はどこまで拡張できるのか? 土屋:
『自在化身体論』の中で、先生が「ウィーナー界面」と呼ばれている「人間が制御できるものと、人間が制御できないものの境界面」を、自在化身体によって押し拡げていくことが可能であるというお話がありました。
YouTubeなどで、楽器だったりゲームだったり、さまざまな道具を自在に使いこなしている方々を見ていると、人間が「脳の可塑性」によって適応できるものには、不可能はないのではないか?という気がしてきます。ウィーナー界面はどこまで引き伸ばすことができるのか、逆にいうと、人間の適応能力の限界はどのあたりにあるのでしょうか?
提供:東京大学 稲見・門内研究室
『サイバネティックスー 動物と機械における制御と通信』(1948)でサイバネティックスを提唱した数学者のノーバート・ウィーナーは、制御できる世界とできない世界を分けて考えるべきと著書に記している。
稲見:
究極的に言ってしまえば、世界を包含するレベルまでいく と思います。ただしそれは、
いまの「ユニバース」ではなく「メタバース」の形であれば実現できる ということです。自分の行動や思いが、リアルタイムで世界とインタラクティブになったとき、世界と自分が繫がった感じがすると思います。たとえばそれはサーフィンをやっている方が「波と一体になった」感覚を覚えたり、「ゾーンに入った」と感じたりすることに近いと思います。究極的な所までいくと、
自分の身体が延長していくだけではなく「世界」そのものが自分と繫がって、自分が空間に偏在しているような、まさにユビキタスな状態に至る と考えます。
一方で、人間という生き物が「どこまでも学習できる」とはいっても、得意不得意があるわけです。たとえば我々がつくった
では、右腕を右足で動かしたり、左腕を左足で動かしたりするのは、比較的短時間で学習することができます。ほかにも、左腕を右手の親指で動かすのも比較的上手くいきます。しかし、右腕を左足で動かす、となると、こんがらがり始めることが多いんです。
©2022 Ken Arai.
余剰肢ロボットシステムの概要図。点線は無線接続、実線は有線接続で、VR内で足先と余剰肢が連動する。2022年6月にScientific Reports誌に掲載された。
「逆さ眼鏡の実験」という有名な実験があります。プリズムを利用して、見える景色を上下反転するというものです。最初は歩くこともできませんが、一週間ほどするとだんだんと適応できるようになってきます。それでも、上下反転の景色は適応しやすいんですが、左右反転の景色は適応しにくいといわれています。
このように、
勉強にしろスポーツにしろ、人間の適応の過程の中に、なんらかの難易度の構造がある と予想されます。こうした難易度の構造を明らかにしていき、
学習のショートカットを発見する ことも「身体情報学」の役割だと思っています。
の研究では、指がどう動いたかという状態を、「触覚」として身体部位のどこかにフィードバックされる仕掛けがあると、身体化を加速させるのでは? という仮説を持っていたのですが、実際にやってみると、やはりその傾向があるようです。
身体の他の部位からは独立して動かすことができる人工指の「sixth finger」。
Scientific Reports誌に2022年2月に掲載された
また、第3、第4の腕を身につけることができる
でも、新たな腕は装着者の足で制御することができるのですが、アームが物を掴むと、足にも触覚が返ってくるようにつくられています。
提供:東京大学 稲見・門内研究室&KEIO MEDIA DESIGN
足指・つま先・膝の動きを計測して、装着した2つのロボットアームを動かすデバイス「MetaLimbs」。
“身体性を自由自在に編集することはできるのか?”をテーマに2017年に試作された。
VIDEO
どうやら人間の脳は、身体と視覚と触覚がちょうど良いタイミングで重なったときに、それを自分の身体として認識しやすい性質を持っているようなんです。 このような性質を明らかにしていくと、新しい道具、あるいは新しい身体を使おうとする際に、道具や身体をどのように設計すれば利用者が使いこなしやすいのかを理解できるのではないかと考えています。
つまりそれは、ユーザビリティといわれている分野の中にまた別の理論的枠組みを提供することにつながるのではないか と期待しています。
土屋 :
なるほど。「身体情報学」とは、人間の身体と道具を仲介する仕組み、広義での「インターフェイス」の使い勝手を向上させるための研究でもあるわけですね。
心はエンジニアリング可能か? 土屋:
普段接している情報環境や道具と対応するように、我々自身のメンタリティやリアリティ感覚は変容しているように感じます。たとえば、いまや我々は、メッセージアプリで表示される「・・・」のアニメーションを見るだけで、人の存在を感じるようになっていますよね。
同様に、MetaLimbsをはじめとする身体拡張の実験の中で、被験者の中に、いままでになかったような新しい感覚が生まれる、といったことはあるのでしょうか。
メッセージアプリなどで、相手が入力中に表示される吹き出し「Typing Dots」は、
デバイスの向こう側に人の存在を感じさせる。
稲見:
まずなんといっても、(
や
のような拡張された部位が)「動く」と、皆さん、楽しくなって、素直に喜ばれますね。ただ、しばらく動かして楽しむわけですが、
実験が終わって装置を外すとなぜか寂しい気持ちになる んです。
腕をなくしたときの幻覚痛とまではいきませんが、拡張されたものでも無くなってしまったとき寂しさというのか、これはいままでに味わったことのない感覚です。
は、実験で
を使用し、脳の可塑性があることを確認しました。この実験後に6本目の指を外したとしても、脳の変化は元に戻らないかもしれない、という指摘をしています。
学習全般にいえることですが、
覚えることよりも忘れる方が大変だったりする わけです。特に身体の運動記憶を忘れることは、簡単にはいかないでしょう。自転車に乗ることができる人が、自転車に乗れなくなるようにすることは大変ですよね。つまり、可塑性があるといっても、ヒステリシスつまり経路依存性もあるかもしれないわけです。
土屋:
人間が身体を拡張したり自在化したりした先で、心にどのような変化が生じるのか。これはどこまでわかっているのでしょうか。本誌でも触れた、「ゴーストエンジニアリング」のアイデアとも関わってくる部分かと思います。
稲見 :
まず、
心に影響が「ある」か「ない」かでいうと、どうやら心に影響は「ある」 ということがわかってきています。ネガティブな例ですが、排気量の大きな車に乗ると人格が変わってしまうことがあるように、アバターの変化が心に影響を与える「プロテウス効果」などが確認できています。私も逆にエコカーに乗ると、いかにアクセルをゆっくり踏むか、考えたりしてしまいます。それはもしかすると、身体と心の関係に影響があると説明できるかもしれないと思っています。
我々の研究室に「セミリアルタイムのボイスチェンジャー」を研究している学生がいまして、たとえば若い男性がこのボイスチェンジャーを使用して、シニア男性の声に変換した状態で、シニアの方と話す。すると、シニアの方への尊敬の念が増えた、という結果が報告されています。
こういった技術と、ゴーストエンジニアリングを連携しながら、我々は
どのような身体を設計すればより良い心の状態に持っていくことができるのかを考える ことができるでしょう。
土屋:
身体や心の健康な状態を維持するための方法として、生理学的アプローチでは、薬などを人間に投与してその影響を観察していくわけですが、
薬ではなく、体験やコンテンツが身体にどのような影響をもたらすのか、現実の認知の仕方がどのように変わっていくのか を調べていくのは、まさに身体情報学的なアプローチといえそうですね。
稲見:
生理学の世界では、薬が効くか効かないかは、プラセボ(偽薬)をつかったダブルブラインドテスト(二重盲検法)によって検証するんですね。
これは何を意味しているかというと、「プラセボは効く」ってことを意味しているんです。 プラセボ効果を排除するためにダブルブラインドにするわけですから。
情報学の立場では、「究極のプラセボはどうしたらつくれるだろう?」と考えるわけです。 ただ、プラセボでも副作用が起こるようなので、もちろん注意は必要ですが。
情報で心や痛みに働きかけるようなものをつくっていくというのは、今後、薬学の先生や医学の先生と協力しながら取り組んでいくことにもなるかもしれません。これが先ほどのゴーストエンジニアリングの先にある話だと思います。
土屋:
どのような情報に接したり、どのようなつながりをつくったりすれば健康になれるのかが解き明かされていくと、情報栄養学ともいうべき世界が開けそうですね。
稲見:
たとえば、「処方箋としてのVR」といったことが起こり得るということですね。そして、それが効くかどうかは身体情報学的な身体がシミュレートされたデジタルツインで試験をしているので効果が保証されている、という……。これはもちろんいますぐには無理ですが、何十年か先にはありそうな気がします。
伝統的サイボーグとバーチャル・サイボーグ 土屋 :
例えば、義肢は本来欠損した部位の補綴を目的として使われていたものですが、近年は非常に高性能になっており、本来の肉体以上の機能を発揮できるようになりつつあります。これがさらに進んでいくと、あえて健康な肉体を持っているにもかかわらず、腕を切断してサイボーグ化するという選択をする人も出てくるのではないか、と思ったりします。また、
のように侵襲型のデバイスを身体に埋め込んでいこうという動きも、いよいよ始まろうとしています。
人間がテクノロジーと一体化することで人間の身体を拡張させていくという動きを、人間はどこまで許容するべきなのか、またそれを推し進めることによってどのような問題が出てくるのか、現時点で考えられていることはありますか?
稲見:
伝統的なサイボーグは、「身体を改造して、高性能な機械を埋め込む、ないしは付け替える」という考え方が主流でした。しかし現代では、身体を改造するというよりも、ロボットを装着してそれを自在化するとか、体験として同等のものをメタバース上で実現するといった、いわばバーチャルサイボーグ的な考え方が主流になってきていると思います。
倫理的に可逆性を考えるのであれば、
バーチャルサイボーグの方が物理的な可逆性は多い と予想されます。実際にテーマパークをゲームの中に作成して体験することと、物理的にテーマパークを作成するのでは、コストや可逆性に差が生じるとの同じように、身体に対しても、バーチャル化することで服を着替える感覚と同じように「身体」や「スキル」を切り替えることができるようになるのであれば、頭蓋骨に穴を開けるような侵襲的なものよりもずっと倫理的な問題点は少ないのではないかと思います。
しかし一方で、
バーチャル上であっても体験というものはすべて不可逆なものです。トラウマや心理的なストレスを起こす可能性もあるので、注意しなくては なりません。その上で、許容範囲のラインを決めることが現段階の状態だと思います。
土屋:
スマホの美容フィルターを使って、バーチャル上で目や顔のサイズを変更することで、逆に現実世界の自分と乖離したコンプレックスが生じ、美容整形をする方が増えているという話を目にします。これと同じように、数十年後には「メタバース上の自身のアバターである六つの腕がついた自分が自然な姿である」と思う方が、現実世界でも身体改造をしていく、という事も起こり得そうですね。
肌質や顔の輪郭、体型などを補正することができるアプリ「snow」には、
全世界で4億人のユーザーがいる。
稲見 :
そうですね。自分にとって一番しっくりくる、効率的な姿を、バーチャル上で見つけることができれば、最終的には物理世界の姿を変えていく人も出てくるかもしれません。
異なる世界同士をつないで調停する技術 稲見:
いまの時代は人と人のコミュニケーションの間にデジタル世界が入る場合が多いですよね。これは、自分が見えている世界と、相手から見えている世界を変えることもできる ということです。たとえば私が、学生に講義している際にアニメキャラクターのアバターを使用することで相手からの印象を設定することができるようになるわけです。
とある動画配信サイトでは、コメントが流れている際に荒らしコメントの対策として「NGワード」を設定してコメントが流れないようにするそうなんですが、この仕組みのポイントとしては、荒らしコメントを書いた人には、自分の書いたコメントが流れてくるようになっている点なんです。全員にはコメントは表示されていないけど、コメントを書いた人にはそのコメントが見えているので、それで溜飲を下げることができる。これはまさにマルチバース的勝利というか、調停現実(Mediated Reality)といえる例なのではないかと思います。
Mediated Realityという言葉は、ウェアラブルコンピューティングのパイオニアであるスティーブ・マンによる造語。ウェアラブルデバイス(例:没入型ヘッドセット)や携帯型デバイス(例:スマートフォン)などを通じて、現実の知覚に情報を加えたり、差し引いたり、そのほかの操作を実行する能力を指す。
(中略)
Mediated Realityは通常、ユーザーの現実の認識を「媒介」し、追加、削除、補強、強化、変更する作用をなすが、多くのテクノロジーと同様に、良い面も悪い面もある。
引用:
ニコニコ動画では2020年7月から、独自開発の人工知能で不適切なコメントを自動で非表示にしている。投稿者自身のコメントはサーバーを経由しないため、そのまま自身のディスプレイ上に表示される。
いまの世の中は、情報技術が進化して便利になる一方で、エコーチェンバーや、フィルターバブルといった現象が発生し、世界の分断がどんどん進んでしまっている。
テクノロジーの進化でみんなが仲良く会話をすると思っていたら、会話をしても分からないことが沢山あるということが分かってしまった、という状況 です。
これを解決する方法として、お互いを分かり合うためのつながりをつくっていこうというのも大事なアプローチですが、もう一つのアプローチとしては、市場原理と同じように、各々が勝手に楽しい世界を構築しているけれど、実は楽しいと思っていた方向を上手に変換して出力することで、互恵関係をつくり出すような、
「調停的」なやり方が考えられます。
土屋:
調停的なやり方、とは、たとえばどのようなものがあるのでしょうか?
稲見:
を挙げます。非常にアーティスティックな考えで私は好きな話なんですけど。VRで釣りのゲームを楽しんでいる方がいて、釣竿に紐がついたデバイスを持って釣りを体験している。釣竿の反対側に、実はもうひとり、VRゴーグルを付けて、凧揚げのゲームをしている人がいるんです。そして、
それぞれの世界のタイミングとスケジュールを上手に設定することで、お互いが糸を引っ張りあっているだけなんですけど、VR上の世界では釣りと凧揚げの両方を体験することができる ようになっているわけです。
ドイツの大学Hasso Plattner Institute(HPI)による「Mutual Human Actuation」は、
異なるVRコンテンツを体験している二人一組のユーザーの動作を、互いのアクチュエーターとして利用する。
メタバースでは、時間も空間もある程度調整する事ができるので、物理世界よりもより自由に、このような調停的な組み合わせをつくり出すことができると思います。自分の心地よい所で、好きなことをやっているだけなのだけど、実はその裏で全然別の世界と互恵関係になっているという仕組みをつくることは、「メタ(ユニ)バース」ではなく「メタ(マルチ)バース」となった時に持続的に発展していくためのひとつの方法かもしれません。
土屋:
いまのお話を聞いていて思い出したのですが、自分がよく口にする冗談で、「ギャルゲーと乙女ゲーの永久機関」というものがあります。主人公の男の子になって女の子と恋愛するゲーム(いわゆる「ギャルゲー」)と、主人公の女の子が男の子と恋愛するゲーム(いわゆる「乙女ゲー」)というものがありますが、やはりゲームとして事前に用意されたプログラムなので、セリフやインタラクションに限界があるわけですよね。しかし、この二つのゲームをネット越しに、まさに調停的に繋いでしまえば、無限に疑似的な恋愛のやり取りが生成される永久機関が完成するのではないか? と。これは冗談だったのですが、メタバースによって、まさにこういう仕組みに現実性が出てきている、ということなんですね。
「人間」から「間人」へ:デジタルツイン的な考え方 土屋:
身体情報学によって人間の仕組みが解き明かされていくと、人間自体がエンジニアリング可能になってくわけで、そうすると人間のあり方がいまとは大きく変化しそうですね。
稲見:
人間をホモ・サピエンスとしてみたら、私はメガネをかけていない「裸の人」の姿であるはずです。しかし「服を着て、日本語という言語を話して、メガネで視力を補綴している」という状態が、いま、私を標準的な人間として見せているといえますよね。こうした「人間像」が今後大きくアップデートされると思います。
人間という言葉は、「人」と「間」の二文字で定義されているわけですが、「人」という部分はホモ・サピエンスを示している。一方で
「間」という部分には、社会やインタラクションを示している と考えてみると、情報学的な立場としては、今日の人間の主体というのは「人」ではなく「間」の部分が多くを占めているんじゃないかと、とらえられるわけです。
情報学的視点による人間のエンジニアリングとは、人間の「間」の部分をエンジニアリングして「人間」を変化させていくということです。そう考えると、未来では「人間」という言葉は、反転して、間の方が先にくる「間人」という呼ばれ方になるかもしれません。
間人とは、まさにデジタルツインのような考え方だと思います。
自身をサイボーグ化しようと試みた、
も最初は、自身の肉体を維持することを考えていたと思います。しかし晩年は自分らしい情報主体、つまり、「人間」の「間」の部分を残そうとしていたのではないでしょうか。
また「死」の定義も情報的理由によって変化すると思います。
はデジタル技術を用いた新たな弔いの形を研究しているのですが、その研究の先には「自分の情報を消す権利はどこまであるのか」ということを考えざるをえなくなります。実際のお墓を例に考えてみると、「永代供養」とは実質的には永代ではないわけです。数十年経てば、そのお墓を供養する人がいなくなる。それと同じように、
死の定義とは情報として記憶から消された時に、初めて「死」といえるかも しれません。